遠州浜松にも明治維新に活躍した人(with 西郷どん)が居たんですよ

去年は「おんな城主 井伊直虎」で浜松は盛り上がりまして。

そして今年の大河ドラマは、明治維新から150年ということで。

歴史好きにも人気の幕末を舞台に「西郷(せご)どん」が絶賛放映されています。あの方言を聴いていると、まっこと違う国のようですな。

(出典:NHK公式サイト)

そして北川景子さんの姫っぷりがまたお美しいです。
西郷どんが居る薩摩藩が発言権を高めるために、将軍家へ輿入れされた篤姫役。以前も篤姫が大河ドラマになりました。

NHK「西郷どん」twitterサイトより

実は…今回の「直虎」と「西郷どん」とつながるこの大河ドラマの流れには、接点があったことを発見しましてね。それが今回取り上げる「遠州報国隊」。聞いたこと、あります??幕末の遠州地域の歴史を語るうえで欠かすことができない、この「遠州報国隊」にとっても、結成から解散までの活動150年の節目の年なんです。

遠州報国隊って??

ということで浜松市博物館の催しへ行き調査してきました。今回は浜松を中心とした遠州地域に伝わる幕末の歴史、遠州人の活躍をご紹介していきます。

浜松は小さな城下町だった江戸時代

江戸時代というのは殆ど歴史で習わないんですけど実はスゴイ時代なんですね。

当時の人口は約3,300万人、ほぼ完全な自給自足、完璧なリサイクル社会で回っていたんです。江戸の町は人口100万人クラスで世界最大級の都市であるのに、わずか250人程度という非常に少ない人数で警察業務やお役所業務、防災にあたっていたんですね。

幕末の浜松の人口はおよそ6千人。当時は大都市が10万人規模ですから、地方都市ですらない規模感…明治に入ると1万2千人くらいになりますが…(参考『浜松市史』)

意外と寂しい町だったんですよ

幕末の世相って

幕末の歴史を簡単に言えば。ヨーロッパで起きた産業革命で蒸気機関が発明され、それを船の動力に欧米が世界各地を植民地化していました。日本でもこうした外国の圧力に窮した江戸幕府が大政奉還して、新たな日本のかたちをどう作るか?の争いだったと言えます。

「尊王攘夷」か「佐幕」か?!

国を真っ二つに割った内乱の始まりでした。

植民地化を救ったって話ですが、実際は…

幕末の歴史といえば。松下村塾の吉田松陰を皮切りに、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允のいわゆる“維新の三傑”、坂本龍馬や高杉晋作といった魅力的な人物がよく登場しますね。
(興味ある方は「孝明天皇」でググってみてね!面白い記事がたくさん読めますよ)

実は浜松にも「お台場」があるんですよ!

「台場」とは、外国船の出没に備える目的で作られた砲台を据える台のこと。浜松にも遠州灘の米津浜に、砲台の跡地があるんです。安政2年(1855年)幕府の命で、浜松藩が武士と付近の農民に築かせました。当時、東・中・西の3基あって、高さ約27m、前面はすべて石積みで、上部には砲身およそ5.5m、重量およそ2t、人の頭ほどの口径の大砲を備えていたと伝えられています。

米津浜砲台跡(市指定史跡)

浜松のお台場

米津浜砲台跡(市指定史跡)
住所   浜松市南区新橋町2011-6
URL http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/hakken/mesho/odaiba.html(浜松市サイト)
浜松市南区新橋町2011-6

ま、とにかく。こんな地方でも幕末の騒乱は他人事ではなかったということですね。

西郷どん(官軍)が攻めてくる!!!

京都では、開国反対の孝明天皇が謎の急死後、錦の御旗を掲げた薩摩長州連合軍が「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、打倒徳川家のため京都から江戸へ向かい進発していました。

東征大総督が有栖川宮熾仁親王、そしてその参謀が西郷隆盛。

西郷どんが攻めてきた!!さぁどうする?!

当然その道中にある各藩も、

「お前んとこは、俺たちにつくのか?刃向かうのか?」

と選択を迫られるわけです。

さて浜松を中心とした遠州の動きはどうだったかというと。「決められない…」と即決できずにいましてまごまご。。

藩が動かないなら、勝手に動く!と動いた一団があったんですね。

それが「遠州報国隊」

その一団が、神主・富農を中心とした有志の民衆だったんです。遠州地域は「国学(日本固有の思想や文化を究める学問)」が盛んで、天皇を敬う風土が強い土地でした。杉浦国頭という学者から始まり、賀茂真淵(教科書にも載ってる!)によって大きな広がりをみせ、神主や富農の教養と財力が豊かな土地だったんです。

この賀茂真淵の末裔で、井伊谷宮の神職も務めた山本金木(やまもとかねぎ)と浜松藩御用商人の池田庄三郎を隊長として、神官層を主体とする民兵隊が結成されました。その場所が現在の浜松五社・諏訪神社。

国のために動くと、神様の前で誓ったんですね

ここでも「やらまいか!」精神で動いてますね。民衆側の合言葉です。

現在みられる隊員名簿によると総員306名をかぞえ、うち280余名が神主、農商10・僧侶3・浪人5、そのほか医師などより構成されていました。

西郷どんと共に活動

浜名湖今切口と天竜川の官軍護衛を申し出、その後従軍を認められた遠州報国隊は主に東征大総督宮の警衛を務めます。また江戸に入ってからは江戸城周辺の警衛を行い、江戸無血開城後の上野での彰義隊との戦い、会津を中心とした東北での戦いにも参加しました。

このなかにも戦う遠州報国隊が居た

西郷隆盛直接の指令で、山梨方面へ偵察業務にいったこともあったんですよ。(このときの戦相手は新選組の近藤勇率いる幕府軍)
歴史に残っている戦いに、遠州人が加わっていたんですね。

上野戦争の戦没者を招魂するときは、命令で神主が多い遠州報国隊が祭祀を務めました。

このように祭祀の指示がありました

お役目の終了とともに

江戸城内の警護を果たし、大総督宮の京都帰還のお供を命じられた遠州報国隊。11月に帰国を命じられた遠州報国隊のうち、大半の者が付き従い帰郷しました。大総督宮を舞阪まで見送り、ここに遠州報国隊の活動が完了、解散に至ります。

ところが最後の将軍徳川慶喜が駿河国に封じられ、配下の者も付き従い駿河遠江に移ってくると、旧隊員は恨みを持って敵視され、なんと刃傷沙汰になることも…

その救済として、戊辰戦争戦没者の慰霊を目的として大村益次郎が創建した「東京招魂社(現靖国神社)」の神職として、東京へ出る者も居ました。明治新政府とのつながりも強い、遠州地域だったんですね。

そのほかにも、賀茂水穂(山本金木の弟)は靖国神社の2代目宮司になり、先ほどの招魂祭主を務めた大久保春野という人物は、なんと薩摩藩長州藩以外で初めて陸軍大将を務めるという、明治政府の中で軍人や神職として活躍したのです。明治になっても出世運がある遠州浜松です。

大久保さんは知られていない遠州の超出世人

五社神社・諏訪神社の向かいにある五社公園には、遠州報国隊の記念碑が3つ立てられています。

五社公園は昔市役所があったところ

当時の世相を考えると国威発揚のため建てられたと考えられる

ただ内容は、功績がはっきり書かれたものではなく、主に隊員の名前が刻まれているモノ。作られたのも明治後期から大正期で、明治維新に上手く乗った者は栄華にありつき、乗れなかった者は没落したという悲しい物語があるのです。

300有余名の隊員名が刻まれる

そして五社神社・諏訪神社。五社神社はもともと掛川市西郷にある五社神社がもとの神社で、2代将軍秀忠の母の出身地でもあります。秀忠がすくすく育つようにこの神社を浜松へ持ってきたのが始まり。なので徳川の神社なんですよ。

徳川2代将軍秀忠と生母再郷の局のために建てられた

ここで各地の神主を主体として報国隊の結成がされたんですけど、当時各地の神主のなかには分けも分からず「神主の職を保証したいがために参加した」という人たちも多かったようです。

現在の五社神社・諏訪神社の神殿

なのに後年、ここの神主が徳川家に刃向かうなんて…神様でも予想がつかなかったんでしょうね。なんとも皮肉なものです。歴史の面白さ、不思議さです。遠州人のやらまいか精神は、歴史が動いたそのときにも発揮されていました!

井伊宮の神主さんが遠州報国隊の隊長で、結成された場所・五社神社は2代将軍秀忠の母”西郷の局”に縁があって、報国隊は”西郷”どんと行動を共にし、そして弟が靖国神社の宮司にもなる。去年今年の大河ドラマつながりを見つけたのは、偶然なのか?!はたまた強引なのか…は読んだあなたに委ねます(笑)

浜松五社神社・諏訪神社
住所   〒430-0937 浜松市中区利町302-5
電話番号 053-452-3001
FAX番号 053-452-7333
URL http://www.gosyajinjya-suwajinjya.or.jp/
受付時間 9時から17時
駐車場  あり
浜松市中区利町302-5

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藤村紀和

今日もバイクの街はーまつが生んだポンポン「スーパーカブ」で走る、遠州率は100%・歴史(徳川よりも今川派)とスイーツ(毎週ソフトクリーム食べてます)と都市伝説が好きな、セールス売上げ着火ライター