ここは夫婦で出世城!【掛川城①】一豊と千代の戦国ふたり旅

掛川駅から北に目を向けると、小高い丘の上に見える白壁の城。
昨年は遠州浜松が「おんな城主 井伊直虎」で大河ドラマの舞台になりましたね。
実は2006年にも、ここ遠州掛川が大河ドラマの舞台となっていまして。
司馬遼太郎原作の「功名が辻」です。憶えてますか~??

この掛川のお城、去年放映された「おんな城主 井伊直虎」にも
出てきた、様々な歴史を持つお城なんですね。

「直虎が愛するの人が、この地で…」
「今川家終焉の地」
「ここでお前の支えがあったから、明治維新も活躍できたんだな」

今日はこのお城にまつわるストーリーをご紹介していきますよ。

■まずはお城の変遷をご紹介

掛川城の築城は今から約550年前に、今川家臣の朝比奈泰凞(あさひなやすひろ)が今川義忠(今川義元の祖父)に命じられて造られたのが始まり。朝比奈3代を経て徳川家の領地となった後、家康が秀吉の命令で江戸へ移ったタイミングで山内一豊が入場しました。

この一豊が大規模な城下町建設を行い、今の掛川の基礎が出来たんですね。一豊は城造りが結構得意で当時いろんな城の建築に関わっていて、一豊は掛川城の大改修を行い3層の天守を造りました。城は標高50メートルの竜頭山に本丸を置き、東北に二ノ丸、その東南に三ノ丸のほか郭があり、石高よりも立派で「東海の名城」と呼ばれるものでした。

立派な姿に造り替えられた掛川のお城

その後関ヶ原の戦いの大きな働きで一躍大出世とともに高知県へ移り、その後は井伊直政の子孫も入城しながら31代を持って明治維新を迎えました。ずっと山内さんのお城ではなかったんですよ。

その後安政元年(1854)、東海大地震によってお城を始め石垣や大半の建物が倒壊してしまいます。(この地震に耐えた掛川城二の丸御殿は、江戸時代から現存する4つの御殿のうちの貴重な1つなんですよ)

現在の掛川城天守閣は、平成6年(1994)に日本初の木造天守閣として復元されたものです。総工費10億円を超える大事業、その半分を白木ハナエさんという方のご寄付があって復元することができたんですね。

白木さんは掛川春林院中興の祖なんです

■井伊と今川因縁の地「懸川」

当時は「懸川」と言っていて(この由来はちょっと怖いストーリーがあるんです…)、没落の土地と言えるんじゃないかってくらい、暗い2つの出来事があったんですね。

<その1:井伊家滅亡の危機!>
大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」にもあった場面。当時戦国のトップ大名今川家の傘下にあった井伊。今川義元が桶狭間の戦いで亡くなり、傘下の小さき領地の侍たちはこぞって離れていくなかで井伊も例外ではなかったのですが…それがバレて、呼び出されて、申し開きに駿府静岡に行く途中にこの掛川の地で暗殺されてしまいます…

謀られた直親…(おんな城主 井伊直虎より)

井伊家唯一の跡取りだった井伊直親の暗殺…そしてその後の今川による過酷な仕打ち。
まさに滅亡寸前!ただこの事件があったからこそ、直虎誕生につながったんですけどね。

そしてその大大名・今川家が滅亡したのもこの掛川の土地なんです。
義元が亡くなり力を失った子の今川氏真は、北の武田信玄と西の徳川家康から挟撃されてしまいます。長く本拠地だった駿府は武田に占領され、西の浜松は徳川に支配され、この掛川の地に逃げてきます。ここで城主の朝比奈泰能と半年立て籠もり家康と戦います。実は長い掛川城の歴史のなかで唯一の戦いでした。

実は深さ45mで全国第3位の城井戸

この井戸に守られたという言い伝えもあり(?)、半年以上持ちこたえていたんですね。この頃から家康は城攻めが下手だった!武田信玄の出方にビビった家康は結局攻め落とせずに和解して、ここに名門今川家が滅亡しました。
(氏真はその後家康の世話になるというところが、歴史の面白さですね)

■妻の「へそくり」夫の「頑張り」で開運!掛川5万石の城主に出世

掛川城といえば、歴代城主のなかで山内一豊が最も有名ですね。そして彼を支えた…というよりも僕の中では「引っ張った」「尻を叩いた」感じを受けるんですが(笑)、奥さんの千代さんの力量がこれまた凄いんですよ。司馬遼太郎も「彼女が居なければ、間違いなく一豊は城持ち大名になれなかった」と言い切ってますからね。

一豊は若い頃ひどく貧乏をしていて、一豊15歳の時、親父が織田信長による岩倉城攻めによって討死(信長と対立していた織田信安方に居た)。城を追われ、流浪し続け、身を寄せた先が織田信長の家臣となり、そのまま信長に仕えるようになりました。その頃秀吉の配下として働き、この頃一豊の母が近隣の娘たちに縫物を教えていたなかで千代がいて、目に留まり結婚したと言われています。

この頃もまだまだ貧乏ななか、千代の明るく楽しい工夫が山内家を盛り立てていったんですね。
例えば、

<パッチワーク着物!>

戦火で燃えてしまった着物の端布(はぎれ)を集めて、さももともとあったデザインかのように1枚の小袖に仕立てあげた。秀吉夫人からも発注がきたとか?!

<これが山内家のマナ板>

お米を入れ測る枡をひっくり返してマナ板に!モノが少ないこの時代にこの機転は素晴らしいですね。

<旗も貼り合わせ>

戦へ出陣となれば、武士として晴れの舞台。自分をアピールして手柄を立てるのが出世の王道。そのために必要のが「旗印」。まだまだ貧乏な山内家、大将の旗も千代が手作りの貼り合わせだったんです。
※出典:NHK大河ドラマベスト10
そして一豊を一躍有名にしたのが、

「千代のへそくりで馬購入し信長の目に留った事件」

なのでした!

「ワシが一豊を認めたんだがや」

京都で「御馬揃(おうまぞろ)え」の儀式があったとき。これは主君信長の前で馬を揃えて謁見するもので、天皇も臨席する大イベント。侍にとって良い駿馬で臨むのは当然誰しも思うもの。しかし一豊は貧乏一直線…

当然馬商人もこれを見越して良い馬を連れてくるんですよ。しかし誰も買えない…。

一豊「なぁ千代、俺は貧乏な生活を恨む。あの馬で行ければ信長様の目に留まるだろうに…」
千代「ちよっと待って。~(ガサゴソ)~ 父から貰った、いざというときに使うこの黄金10両、これで東国一の駿馬を手に入れてください!」

御馬揃えの儀式で、一豊はこの名馬に跨って儀式に臨み、信長に「織田家の者として良い馬を購入しよくぞ面目を保った」と評価され、一挙に5倍以上の加増される出世を遂げたのです。

そんな千代の頑張りに一豊も応えて、戦では顔面に矢が貫通しても敵将を討ち取り(現在高知県安芸市歴史民俗資料館に所蔵)、信長の死後はそのまま秀吉に仕え、本当に一歩ずつ頑張りました。同僚が次々出世し大名となっていくなかで、一豊が掛川5万石の大名になったのがなんと48歳!人生50年の時代にですよ?!
今でいえばどうでしょう。定年が無いとして70代で部長代理くらいですかね…

しかしここで終らせなかったのも、千代の凄いところなのでした!
~続く~

掛川城
住所   〒436-0079 静岡県掛川市掛川1138番地の24
電話番号 0537-22-1146
URL http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kankou/spot/rekishibunka/kakegawajyo.html(掛川市サイト)
開館時間 9時から17時(入館は16時30分まで)
休園日  年中無休
静岡県掛川市掛川1138番地の24