天守閣を10倍楽しむ【掛川城②】ここまでの復元は国内で珍しいよ!

良い御日和ですな。山内一豊でござる。

今日は私がつくったこの掛川の城をご案内いたそう。
前回は私らの半生を読んでもらったんだけど(ここは夫婦で出世城!【掛川城①】一豊と千代の戦国ふたり旅)、今日はせっかくなのでこの掛川城の天守閣のご説明をば、自ら案内させていただこうと。私がこうして城持ち大名になれたのは千代と秀吉様あってのことなのです。

「一豊さん、こんにちは~。掛川城の歴史、よろしくお願いします!」

外国人観光客や地元の幼稚園児・小学生が見学にくる掛川城。今日のお相手は地元遠州の歴史を愛する歴女のとわさん。一豊の奥方である千代さんのような賢妻になりたいらしい。

とわ殿、実はこのお城を壮大に改修したのには、秀吉様からの命令がおありでしてな。私が掛川に来る前にこの地域を治めていたのはどなたか、ご存じか?

出典: NHK「真田丸」公式サイト

掛川のお城には裏テーマがあった

「はい、徳川家康です」

秀吉様の次は徳川殿じゃね

そう。もともとこの地域、遠州を治めていたのは徳川殿。しかし秀吉様が天下を統一なされたとき徳川殿は関東へ移封された。秀吉様の本拠地たる大阪や京の都から遠くへ追いやるつもりがおありでな。そしてもともと徳川殿が治めていた土地に、私ら秀吉様の子飼い衆が配置された。
駿府には中村殿が、掛川は山内、浜松には堀尾殿。

三家は仲良し

この三家は仲も良い。秀吉様は

「わしが死んだあと徳川が攻めてきたら、お主らが東海道の防波堤となるのだ」

という密命をご指示されたのだ。だから当時は何倍もの敷地や建物を備えた城だったのだよ。

「なんか裏での駆け引きや探り合いが凄まじかったんですね…」

関ヶ原は、本当に大名の浮き沈みを決めた

秀吉様がお亡くなりになった後、案の定権力争いで「あぁまた戦さか…」となり始めてな。

「1600年の関ヶ原、ですね」

秀吉様亡き後の豊臣政権は石田三成殿が牛耳っておるし、彼は「豊臣の御家を守る」って、加藤(清正)殿や福島(正則)殿、そして徳川殿を排除しようと動き始め…私は秀吉様亡き後は徳川殿しか居らん!そう思ってて、大阪にいる千代は石田殿の監視下に置かれながら私に逐一情報を送ってきた。

『千代はどうなっても構いません。だから徳川様に忠義をつくしなさい。そして密書は読まずそのまま徳川様へお渡しなさい』

よくできたワシの嫁じゃね

とな。もちろん千代の言う通りにしたんじゃ。これに徳川殿はたいそうお喜びなされたわ。

「後世の私たちは結果を知っているからアレコレ言っちゃうんですけど、当時は御家の行く末に綱渡り状態だったんですね」

戦さで手柄が無かったけれど、機転で出世が叶うのよね

およそ30万人が戦ったのよ

とわ殿、出世と言うのは何も戦に頑張ればいいというものではないのだ。自分のできる役割を果たす。ただこれだけでいいのだ。

「一豊さん、関ヶ原のあとは一躍大大名ですもんね!どんなお働きを??」

徳川殿を筆頭に諸大名が会津の上杉殿を攻めたとき、とうとう石田殿が大阪で挙兵したのだ。そこで会議になってな。石田方に味方するなら帰っていいよ、となって。私は戦さもそんなに得意ではないから、掛川の城を徳川殿にあげたんだよ(笑)

「えー!!それはまた思い切ったことを…だって秀吉さんの命令で徳川殿を止める役割だったんじゃあ…??」

御家を守ることと、それにもう戦さはコリゴリだから、強いものについて終りにしたかったんだよ。他の東海道筋の大名も争って、「我も我も!」と徳川殿になびいたけれど、私のインパクトには叶うまい。これも千代のアドバイスあってのことなんだよ。

「掛川5万石の城持ち大名から土佐国(高知県)24万石の国持ち大名になったんですから、よっぽどインパクトが大きかったんですね!」

これは御免、さてそろそろ天守閣へ向かおうか。

城内に入る大手門

昔は城壁に囲まれて、城内に入る門がこの大手門。ちゃんと番所があって、ここで往来改めをしておった。

ちなみに今の地図と重ねるとこんなかたち。北と東西を外堀で囲い、南は逆川を天然の堀として、赤線が旧東海道じゃ。

20万石規模の立派なお城

「ずいぶん広い城下だったんですね。今は街並みも風情がありますね」

城下町の風情あり

本丸四足門

本丸・天守閣に向かう門がここ。さぁ、登城しようかの。

ここをくぐれば天守閣へ!

「天守閣までの道は、曲がりくねって歩きにくいです(> <)」

段差も幅もワザとまちまちにしておる

もともと天守閣というところは、住む場所じゃなくて戦さの時立て籠もる場所。だから少しでも時間稼ぎして攻撃しやすいように、攻め側からは行きにくいかたちなのだ。

天守閣前

この石垣を御覧ぜよ。色が変わっておるだろう?下は江戸時代からの石、新しいのは復元のときに積んだ石なのだ。名古屋城の石垣と同じ、幡豆の石を使っておる。

地震で崩れたのを積みなおした

「なんかあそこ、トゲトゲしてますよ!」

攻め込まれない工夫の数々

それは「武者返し」と言って、登られないための仕掛け。それにほら、建物が石垣からハミ出ておろう?これは石落とし。天守閣のなかから蓋を開けて石ころや熱湯をかける仕掛けなんだよ。

掛川城は三層四階建て構造になっておる。公開されてないが、地下も二階まであるのだ。では天守閣のなかへ。

日本初の木造完全復元天守閣

掛川の天守閣は私が1596年に完成させたのだが、そこから大改修が入る。実は維持管理に多大な金がかかって厄介だったのだよ。1854年の安政大地震で天守閣と石垣が崩れ、明治になって廃城令で壊されて。1991年に木造での天守閣復元が始まった。

「なぜ木造なんですか??」

当時の市長が林業組合長をやっていて、掛川の木材文化を後世に残そうと市民総出でつくろうとしたのだ。建設費用も10億円を超えるものだったのが、市や市民の寄付で大半を賄うことが出来たのと、当時たまたまこれだけの木材を調達できたのが大きかったんじゃ。

図書館等に保存されている江戸時代からの城絵図、発掘調査、わしが作った高知城(現存)をもとにした復元なのだ。

特別ガイド

「あれ!?忍者が居る!!」

毎月第1/3日曜日に、忍者や武将のガイドが居っていろいろお話をしてくれるのだ。

英語スペイン語OKなインターナショナル忍者なんです

天守閣のなかへ

ここが付け櫓。階段を上がれば天守閣の1階じゃ。

木の風味が美しい

ここが1階。見事な木造であろ?床板は釘を使わず格子窓の戸車も全て木製じゃ。
鉄砲を打つための狭間が9か所、石落としが4か所設けられておる。今は鎧兜の展示もしておる。

1Fは鎧兜や軍配など展示物がある

細かな部分まで手の込んだ木造り

「2階へいく階段、ずいぶん急角度ですね…」

昇り降りが大変な角度!

角度が58度あって、当然ながら登りにくくしている。滑らないように手摺りに掴ってな。

ここが2階。鯱のレプリカがあろう?鯱は海の生き物だから、防火に良いとお城の上に載せるのだ。まぁ、縁起ものじゃな。

DVD上映やお城の説明パネルもあります

3階は全然窓がなく、武者隠しになっている。敵を不意打ちするために隠れる場所のこと。4階建てと分からないのはここがあるからじゃ。

隠れて敵を不意討ちするための場所

天守最上階

冬場は富士山も見えるのだよ。当時はここが最も高い場所だったのだ。

昔はここが掛川で一番高いところでありました

「街が一望できて、氣持ち良いですね~♪」

お殿様氣分を味わえます!

掛川のお城はこうして再建されて、今もって掛川のシンボルになっておる。
しかしこのお城が戦さの舞台になったのは、今川家が籠城してまだ若き徳川殿が包囲して、攻め落とせず和解した1回こっきり。いつの時代も平和であるというのは、ありがたいことよの。

我ら山内家は徳川殿のおかげで幕末まで高知県で御家を保てたんじゃ。
しかも幕末には子孫が活躍もして。またもと居た遠州でも同じように活動した人たちも居り。今年は明治維新から150年の年。そんなお話もしていこうかの。

「一豊さん、ありがとう!私はふもとでソフトクリーム食べてきます笑」

お土産お食事も充実です!

こだわりっぱ
住所   〒436-0091 静岡県掛川市城下6-12
電話番号 0537-24-8700
営業時間 [日~土]9:00~21:00

掛川城天守閣のライトアップは夕方5時から10時まで。列車から浮かび上がる天守閣は美しいです。日本100名城にも選ばれている掛川城を、より深く散策してみませんか?

掛川城
住所   〒436-0079 静岡県掛川市掛川1138番地の24
電話番号 0537-22-1146
URL http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kankou/spot/rekishibunka/kakegawajyo.html(掛川市サイト)
開館時間 9時から17時(入館は16時30分まで)
休園日  年中無休
静岡県掛川市掛川1138番地の24

ABOUTこの記事をかいた人

藤村紀和

今日もバイクの街はーまつが生んだポンポン「スーパーカブ」で走る、遠州率は100%・歴史(徳川よりも今川派)とスイーツ(毎週ソフトクリーム食べてます)と都市伝説が好きな、セールス売上げ着火ライター